平和と太平を願う
— 麒麟の絆 —

キリンビールと鳥取

 瑞獣の「麒麟」といえば、日本人なら誰しも「キリンビール」のあのラベルに描かれた麒麟を思い浮かべることだろう。このキリンビールと鳥取、鳥取と日光、そしてキリンビールと日光、このそれぞれにも、まるでこの3者を1つの輪でつなぐ、もう一つの麒麟の絆があることをご存知だろうか。それは「磯野 長蔵(いその ちょうぞう)」という、鳥取に生まれ育った実業家の存在である。
 まずは、キリンビールと鳥取のつながりについて、磯野長蔵の経歴とあわせご紹介しよう。明治7年(1874)3月12日 鳥取県倉吉市河原町の呉服屋の次男として生まれた長蔵は、17歳の時、商人になることを志し、東京高等商業学校(現一橋大学)受験のため上京する。1年間の浪人の末、翌年に合格し、明治30年(1897)東京高等商業学校を卒業する。明治31年(1898)1月、船舶納入業を営む明治屋の創業者・磯野計が設立した磯野商会に入社、明治35年(1902)に磯野計の遺児・菊と結婚し磯野姓となる。明治36年(1903)に明治屋の副社長に転じ、同社社長の米井源治郎とともに明治屋の発展に力を注いだ。米井が没すと、社長に就任し、生涯明治屋の経営に携わった。  当時、三菱商会が販売していた「キリンビール」の総代理店を担っていたこともあり、長蔵は、明治40年(1907)、麒麟麦酒株式会社設立に参加した。昭和に入り、ビールの販売競争が激しくなると、営業部長として高い実績をあげる。昭和17年(1942)キリンビールの社長に就任すると、業界第一位の地位を獲得しキリンビールの中興の祖となる。キリンビールの経営理念「品質本位・堅実経営」は長蔵の理念であったことがキリンビールにおいての長蔵の存在の大きさを物語っている。
長蔵は、昭和29年(1954)、郷土の鳥取県倉吉市に、若者の教育の学資を支援する財団法人三松奨学育英会を創設するなど、未来の社会を支える大切な宝である「若者の教育」に尽力する、決して私腹を肥やすことのはなかったという。まさに、麒麟信仰にも通じる仁徳の精神に満ちた人物であったに違いない。麒麟という社名や、ラベルに描かれた麒麟の図柄が必ずしも、初代鳥取池田藩主光仲公の創造した麒麟獅子の平和と太平を願う文化がルーツとはいえないが、根底に流れる共通の精神に、麒麟獅子に込められた仁を尊ぶ文化の存在が大きく影響しているように思えてならない。
 
ここまでの話で、「初代鳥取池田藩主池田光仲公が徳川家康公の曾孫であること」「その池田光仲公の創造した麒麟獅子が鳥取に根付いていること」「鳥取で生まれた磯野長蔵がキリンビールの中興の祖となったこと」、これだけで、鳥取、日光、キリンビールの間に、麒麟の絆の深さを感じることができるだろう。さらには、そんなつながりがあってかどうかは定かではないが、キリンビールは、麒麟信仰に厚い日光東照宮へ、400年式年大祭限定の日光東照宮400年式年バージョンのビールを奉納しているのである。キリンビールと鳥取、鳥取と日光、そしてキリンビールと日光は、「麒麟」の存在により1つの輪でつながっているのである。